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友人の他界と脳死について

 昨日,高校時代の同期の友人の通夜があった。事故で突然のことだったそうで,私も心の準備が出来ておらず,式場で遺体となった彼に対面してやっと実感した。

 同世代の知り合いが亡くなったという話は,あまり深い縁のなかった人の話は何回か聞いたことはあったが,これほど身近な事は初めてだった。焼香で飾ってあった写真を見たとき,一瞬は悲しみがこみ上げてきたが,後は命のあまりのあっけなさと空しさに,ただただ呆然とするだけだった。
 我々のような若輩の世代の葬儀でいたたまれないのは,残された両親の姿だ。棺の傍で泣きじゃくる彼の母親にかけるべき言葉はとうとう見つからなかった。

 実は,彼とは2年ほど前まで一緒にバンドをやっていた音楽仲間だった。しかし,その活動が行き詰ったとき,ちょっとした行き違いから絶縁状態になり,それっきりだったのだ。
 当時は自主制作であったがCDの製作にも意欲的に取り組み,ライブも回数を徐々に増やしていた最中で焦りもあり,不満の矛先をむやみに彼に向けてしまっていた。
 彼とは音楽の嗜好こそ違ったものの,今にして思えば立場を共有できたのも対等に話が出来たの彼であった。彼が当時組んでいたバンドから離れてしまったときの気持ちも良く理解できたし,それだけに許せなかったのも確かだった。
 そんな苦い思い出も,失われてしまった命の前では「いまさら」と言われるような陳腐な話かもしれない。



 さて,そんなことがあった次の日の今日,脳死について世論が真っ二つに分かれているという記事を目にした。

 脳死を「人の死」とすることを前提に,臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法(A案)

とやらが先日,参議院で成立した。
 国内での臓器提供者が少ない事から,脳死と臓器提供が一緒くたに語られるようになってから久しいが,脳死を人の死とするかどうかを難しくしているのは,実は臓器提供の問題が付きまとうからに他ならないのではと私は思う。
 そもそも「脳死は人の死」というのは,現行法では「臓器提供時に限り人の死」としている。それを改正案では拡大解釈して,いかにも社会通念になったという形で「人の死」という前提を臓器提供のために持ってきたようだ。「人の死」とはそんなことで決められるものなのか。臓器提供の意思がない,またはできない者についての脳死は,判断する価値もないということなのか。
 もし「脳死を人の死」とすることを前提とするならば,この国ではタブーのように語られないでいる尊厳死についての議論も合わせて行わなければ片手落ちだ。死について本人や家族の意思を尊重するという意味では,こちらのほうがどちらかというと重要ではないのか。

 一応断っておくと,私自身は臓器提供を反対しているわけでもないし,臓器提供することを拒む気もない。かといって,積極的に臓器提供しますという気があるわけではなく,また私自身,臓器提供が必要な病気や事故にあったとしたら,他人の生命の一部を貰い受けてまで生きたいという意思はない。また,植物状態で延命措置だけされることも望まない。
 ただただ,自分の運命が全うてきれば十分だ。

 もちろん,脳死になったら自分の臓器を少しでも多く提供してくださいというのも,献身的で立派な考え方だと思う。一方で,脳死で死などを判定せず,誰から見ても「死」と判断できる状態になってから,自分の体は然るべき方法で埋葬してもらいたいという考え方だって人生を最後まで全うするという立派な哲学だ。
 また。私のように中間的な立場で,トナーカードなど持ってみたところでどうしてよいか分からないという人も結構いると思う。

 命はかけがえのないものであるが,その終わりはあまりにもあっけないものだ。だからこそ,その終わりである死は,もっと重く受け止めたいもの。改めて,死について考えることは,生について考えることに他ならないのだと思った。



参考リンク

「脳死」・臓器移植を問う市民れんぞく講座

日本尊厳死協会

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コメント


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まず始めに、ご友人さまのご冥福お祈り申し上げます。

身近な方を亡くすことはとても言葉にはできない感情ばかりで、自分が経験していても他の方にかけるべき言葉はみつかりません。いえ、見つからないのが正解なのかもしれません。

何時ぞやは私の詞に曲をつけてくださってありがとう。
ひそやかにお気に入りで、思い出すたびに聴いてます。

また、ご縁がありますよう。
失礼いたしました。

蓮 | URL | 2009年09月10日(Thu)08:52 [EDIT]


Re: タイトルなし

 ご無沙汰してます。コメントありがとうです。

 身近な人を亡くしたのは,家族を含めるとこれでたしか4回目です。実際に葬儀に立ち会ったのはそのうち3回ですが。
 亡くなったという知らせを受けたときは,確かに驚きました。ただそれは,突然「わっ」と言われて驚いたような,その場限りの感情に近いものでした。彼の遺体と対面したときも確かに悲しかったですが,それも人がなくなって悲しいという一般的な感情でしかありませんでした。
 テレビのドラマなどでは,大切な人をなくした人がショックのあまりふさぎ込んだり,自らの命を断ってしまったりという話が多く,私もそれに毒されてしまっているためか,思ったよりショックを受けていない自分にむしろ驚いたくらいです。

 今の気持ちを正直に言うと,なんか空っぽになっちゃった感じなんです。たまに連絡を取ってみようかなと思ったとき,「ああ,そういえばもう奴と話をすることも出来ないんだ」と思って,空しくなってしまうことがある。そんな感じなんです。
 そうしたら,「プラネテス」というアニメで,奥さんを事故で亡くしたユーリさんという人の言葉を思い出しました。後輩のタナベがユーリさんに,「大切な人がいなくなっちゃうって,どんな気持ちなんでしょう・・・」と聞くと,ユーリさんがこう答えます。

「大切な人がいなくなるとね,悲しくも,辛くも無いんですよ。」
「何にも無いんです,気持ちが。考えないことです。考え過ぎるのは良くないですよ。どんな相手とでも別れは来る。それが早いか遅いかだけの違いです。」

 別にこれは,悟ってしまったわけでもなんでもなく,今では「そんなものだろうな」と思えるようになりました。どんなに悲しくても,自分の気持ちで世界が動いているわけでもなく,日々は繰り返し過ぎていきます。そしてたまに,空っぽになったその場所を悲しそうに眺めながら,生きている我々は前に進んでいくしかないんです。

 ちょっとここのところ,仕事もですが私自身の事もいろいろ忙しくて,なかなかまとまった時間が取れずにいるため,作曲の方はお休みしてます。まあちょっと自分でもマンネリ化を感じるところがあったので,今はできるだけいろいろなものを吸収して,溜まってきたらまた再開したいと思ってます。

 それでは,また気が向いたら遊びに来てください。

xylapone | URL | 2009年09月12日(Sat)19:56 [EDIT]


 

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