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誰がために文明は発達するか

 今日電車に乗ったら,某進学塾の広告が目に入った。そこには大きな文字で,

「何故数学を学ぶのか」

と書かれていた。

 その答えとして,社会生活に直接役に立つわけではないが,論理的な思考が役立つときがあるという風な説明が書かれていた。まあありきたりな無難な答えではある。
 しかし,この「役に立つ」という考え方がどうも即物的すぎで気に食わない。「論理的な思考」と言っても,高校生までで教わる内容だけでは,ほとんど解放のパターンや公式を覚える事に終始するしかなく(それはヴォリューム的に仕方がないのだ),数学的論理的思考の本質を学ぶには程遠く,こじつけの感が強い。
 そもそも,学問とはそんな即物的効果を期待して取り組むものなんだろうか。



 自然科学に限定して言えば,そもそも我々人間に限らず,ありとあらゆる生命活動や自然現象,すなわち森羅万象は自然科学的なものである。それらをそのまま受け入れ,身を任せて生活するのか,それとも論理的に解明していくべきなのかというのは形而上学的な事であって科学とは離れてしまうが,科学という学問の出発点は,そういった身の回りの現象に対する純粋な興味,つまり知的好奇心だったはずだ。
 それを応用して生活に役立てようとするのが科学技術というもので,いわば人間の知的活動のおまけみたいなものだ。そして今の学問は,そのおまけばかりを一生懸命追及しようというものになってしまっている。



何故学ぶのか?
それは知的好奇心を満たすため。



 そんなシンプルな答えではだめなんだろうか。それじゃあ知的好奇心が無い(そんな動物を人間と呼ぶのかは微妙なところだが)人は学ばなくていいのかと言われるかもしれない。

 では,ちょっと簡単な数学(物理もちょっと)を例に考えてみる。これは私が高校のときにお世話になっていた物理の参考書で,「橋本流~」という本を読んでなるほどと思った例だが,距離・速度・加速度の話として


道路を横断しようとして車が来ていたら,まずその車との距離を見る。次に車のスピードを見て,渡り切る時間までに車が来ないかどうかを判断している。そして実は我々はもっと高度な判断をしていて,例えば車が迫っていたとしても,その車がスピードを落としていれば車が止まることを予測して渡る事が出来る。しかし,スピードが遅くてもその車が加速していれば,危険と判断して渡らないだろう。


というような内容がさわりの部分に書かれていた。ちなみに,距離の微分量は速度であり,速度を積分すると距離になる。また,加速度は速度をさらに微分した量になる。
 これは別に,当然だが人間が速度をわざわざ測って計算した上で判断しているというわけではなく,感覚的に行っていることなのだが,我々は定量的ではないが,定性的に微分や積分して予測するという数学的な感覚が備わっているとも言える(本当は感覚の方が先であって,数学と言う理屈の方が後に出来たものだから正確ではないが)。

 この微分や積分ということに関して言えば,実は一見数学的でない現象も,それで説明をつけると合点がいく場合がある。
 例えばある日,いつも通りの筈の生活の中にちょっとした変化があり,違和感を感じる。その時は一過性のものだと思っていても,その不満や不安は知らず知らずのうちにどんどん募っていき,気がついたときには取り返しがつかない事態に結びついてしまったという話は良くある。
 これは数学的に言うと,まさに「デルタ関数」(物理では「インパルス波形」と言ったりする),「ステップ関数(定数関数)」,「ランプ関数(一次関数)」の関係だ。それぞれインパルスを積分するとステップに,ステップを積分すればランプになる。

 ちょっとした変化はインパルス状のショックだ。一瞬だから,そのときを過ぎると忘れた気になってしまう。しかし,そこから何かスイッチが入ることもある。ディジタル的に言えば,0 が 1 になる。
 定数がゼロであれば,その積み重ねはいつまで経ってもゼロのままだ。しかし,定数がゼロ以外であれば,それは時間とともに積算される変化となって現れてくる。「ちょっとした変化を見逃してはいけない」というのは,数学的に説明するとこういう事なのだ。

 こんな事は,数学的に説明されるまでも無く,感覚的に知っていることだ。しかし,こうした当たり前と思える感覚に理屈が伴えば,納得して行動する事が出来る。行動に自信が持てる。そして一番大事なのは,経験やセンスでしか得られないものを,他人に伝える事が出来るのだ。



 今はどうだろうか。学問を応用した結果としての科学技術は発達し,携帯電話やコンピュータが無ければ我々の生活は成り立たない所まで来た。
 しかし,ほとんどの人はその文明を享受するだけで,携帯電話やパソコンがどんな故障をしても,自分で解決手段を提示できる(実際に物量的な問題で修理はできないとしても)という人は滅多に居ないのではないか。
 文明の利器は便利になればなるほどブラックボックス化し,我々は中身も知らずにマニュアルに従ってそれを使うだけというか,むしろ使わされているという感じだ。下手をすると,原始的な生活を送っている人々の方が,自分たちの使っている道具の仕組みなどをよく理解しているかもしれない。

 もちろん,マニュアルに従って道具を使うのも,知的動物である人間ならではの活動なのかもしれないが,知的好奇心から生まれた人間の知的活動の原点からは,むしろ退化してしまっていると言えないか。そういう意味で,学問は人間に必要なものなのだと私は思う。

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